野菜ソムリエの思ひ出の味
母がつくる千切り大根と鶏肉の煮込み

 昭和19年、戦時中のことである。当時、父は戦地にいた。小学一年生だった私は、四国の香川県観音寺市にあった実家で、父の無事を願いながら母と妹弟の4人で暮らしていた。

 物資の少なかった戦時中において食糧は配給制だった。自由に何でも手に入る現代とは真逆の食糧事情である。そのような状況下で母がよくつくってくれたのは、山盛りの千切り大根に少々の鶏肉をのせて大きな鍋で煮込んだ「千切り大根と鶏肉の煮込み」であった。
 大根が煮上がると鉢に盛りつけ、母は隣近所へとおすそわけをしに行く。よそからも別のおかずのおすそわけが届き、皆の食卓の品数が増え豊かな気持ちになるのだ。戦時中の主婦の知恵といったところだろうか。夫を戦争にとられた妻たちはそうやって分け合い助け合って生きていた。思い出の中の母は食べるものもないのに、何時も楽しそうに笑っていたような気がする。

 大根はおそらく農家の親戚から分けてもらったものだったろう。三里か四里ほど離れた町で農業を営む親戚が大八車で届けてくれたような記憶が残っている。大根は皮ごと千切り器でついて、丸ごと残さず使い切るようにしていた。砂糖は貴重品でなかなか手に入らない。味付けは醤油のみだった。しかし、七輪の上で煮上がった大根はほのかに甘みがあって食べやすく、とろけるような舌触りだった。私はそれをごはんの上に載せて、汁かけごはんのようにして食べるのが大好きだった。
 母からは、「公ちゃん、かしわ(鶏肉)買うてきて」とよくおつかいを頼まれた。鶏肉屋のおばちゃんはいつもかしわを包みながらめがねごしに私を見て、肉の上にちょこんと鶏キンカンを一つ載せてくれたものだった。その一個しかない貴重な鶏キンカンは千切り大根と一緒に煮込まれた。妹や弟も食べたがったけれど、母はおつかいのお駄賃として私の器に入れてくれるのが常だった。そんな特別な思い出も相まって深く記憶に刻まれている味なのだと思う。

 終戦の年、昭和20年の6月。母は脳出血で急逝した。それから2ヶ月後、日本は終戦をむかえた。母はどれほど父に逢いたかったことだろう。まだ享年32歳という若さだった。小学二年生だった私は本家へ、妹と弟は母の実家へと別々に預けられた。10月の終わりになって、やっと父が帰還し、妹と弟と一緒に暮らせるようになったのだった。

 「千切り大根と鶏肉の煮込み」は、今も時々思い出すようにつくっている。ただし、今は食材が自由に手に入る時代だ。さつま揚げや畑で採れたての野菜など他の具も様々に加え、栄養バランスを考えてつくっている。大根の切り方はあくまでも千切り。火が通りやすく、味もしみやすいからだ。そして、主菜としてではなく、小鉢(副菜)としていただくことが多い。

 初級の野菜ソムリエには一度で合格したが、野菜ソムリエプロは17回目の試験でやっと合格した。1年前の79歳、最高齢の資格取得者とのことだった。心折れることなく幾度もチャレンジできたのは、福井理事長の本に書かれていた「夢は必ず実現する」という言葉と、何度も転びつつゴールしてきたトライアスロンで培われた精神力があったからだろう。
 農業は50代後半頃に友人の誘いから素人で始めた。つくった野菜は当初売れなかったが、次第にスーパーで委託販売をしてもらえるようになった。70代半ば頃、野菜ソムリエという資格を納入先のスーパーで教えてもらった。資格取得して変わったのは、他業種の友人が増え、農家のおばさんではない考え方も出来るようになったことだ。80代となった今、趣味の時間もとりながら、もっと効率よく利益も上げて長続きするような野菜づくりをしていきたいと考えている。そして、もっと勉強したい、知恵を得たい、販売先も増やしたい。私のチャレンジはまだまだ終わらない。

高村 公子さんのプロフィール
千葉県在住。野菜ソムリエプロ。千葉県内で耕作放棄地を耕し農業を営む。「おいしい野菜を作ってみなさんに届けたい」と現在は複数の店舗へ大切に育てた野菜を卸している。農業の傍ら50歳からはじめたトライアスロンや近代3種競技(ランニング、スイム、射撃)にも熱心に取り組んでいる。
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written by

タナカトウコ

/取材・文

野菜ソムリエプロ、ベジフルビューティーアドバイザー。薬膳や漢方の資格も複数保有し、「食」を軸に多角的に活動中。書籍に「日本野菜ソムリエ協会の人たちが本当に食べている美人食」「毎日おいしいトマトレシピ」「旬野菜のちから−薬膳の知恵から−」等がある。
ホームページ http://urahara-geidai.net/prof/tanaka/
インスタグラム toko_tanaka