兼業農家に生まれ、嫁ぎ先も農家である。ふと気づけば、半世紀近くピーマン栽培に関わっている。私が子どもの頃、水田の転作作物として導入されたのがピーマンだった。親が収穫選別したピーマンを150gの袋詰めにするのが私の仕事。小学校から帰宅して3歳上の兄と一緒に手伝うのが常だった。そして偶然にも、嫁ぎ先の栽培品目もピーマンだった。
嫁いだ当初、私は会社勤めもしていた。夜明けとともに起床し、収穫作業などをして、朝6時から炊事・洗濯・掃除・子どもの世話、8時過ぎには出勤。夜は子どもを寝かしつけてから1時間ほどの選別作業。会社が休みの日は丸1日農作業である。退職するまではそんな2足のわらじ生活を続けていた。あれは若かったからできたことだと思う。
昭和60年、夫が退職就農してハウスピーマンの規模拡大をした。その数年後に、私も退職就農。会社員と兼業の頃よりは、気持ちに余裕が生まれていった。
そんなある日のことだ。JAに出荷できない規格外のピーマンを段ボール箱にぎっしりと詰め、趣味のギター同好会に持参した。「大きくなりすぎて出荷できないの。捨てるのももったいないので、欲しい人はもらってください。素焼きや素揚げするとおいしいよ。」と、箱を開けるやいなや、同年代の男性がおもむろにピーマンをひとつ手に取ってかぶりついた。そして「おおっ、うめえ! 梨みたいだ」と声をあげた。ピーマンが好きで、つやつやしていたので思わずかじったと言う。それは今から20年も前のこと。当時、ピーマンを生で食べるなんてことは無く、梨みたいとは大げさだと思った。別の1人がおそるおそるかじり、「おっ!!いける!」といい、「本当?」と疑いつつ、みんなでピーマンをかじってみた。みずみずしく爽やかな甘味さえ感じられた。イメージしていたような青臭く苦味のあるピーマンでは無かった。
ピーマンは加熱調理して食べるものとばかり思ってきた。また苦味があっておいしくはなく、子どもたちに嫌われている野菜だと思いこんでもいた。固定観念が崩された瞬間であり、自分の育てた野菜の味の発見でもあった。それまで規格や収量にばかり気持ちがいって、正直なところ食味への意識は低かった。思えばあの頃、連作障害で悩み、色々手を尽くし、最終的には土づくりに力を入れていた。それが食味にもよい影響を与えたのだと思う。以降、さらに健康的な土づくりに取り組み、今ではピーマン栽培を夫から全面的に任されるようにまでなった。
ピーマンは同じ品種でも、はしり・盛り・名残と時期によって個性があるのが面白い。はしりは果肉が薄く歯ざわり柔らかで爽やかな青臭さ、盛りは肉厚で食べ応えがあり、名残は皮や果肉が硬くなるのでじっくりと加熱するとおいしい。我が家では素揚げしたピーマンに自家製のピーマン味噌をのせて食べるのが定番だ。ピーマン味噌は、刻みピーマンに米麹、醤油、ざらめ、刻み青唐辛子を加えて煮込んだものだ。販促活動でも人気の加工品でもある。
野菜ソムリエになったのは、今から10年ちょっと前。産直を立ち上げ、お客様と接する中で、自分自身が野菜果物についての知識や理解が欠けていると感じたからだった。退職就農後、社会から断絶された気持ちでいたが、野菜ソムリエになってからはOL時代よりも世界が広がったように思う。食育グループを立ち上げ、新聞コラムもスタート、鉄人シェフや異業種の方々と組んで「風土・food・風人」というイベントも複数回開催している。消極的・我慢体質が、頼まれたら断らない・楽しんだ者勝ちの思考に変わっていった。今後は、若い親子対象の食育イベントや、子ども食堂、子育て支援をしたいと思う。“野菜づくりは彼女に聞け”といわれるような野菜ソムリエを目指し、野菜の魅力だけでなく、育てる喜びも伝えていきたいと考えている。
タナカトウコ
/取材・文
野菜ソムリエプロ、ベジフルビューティーアドバイザー。薬膳や漢方の資格も複数保有し、「食」を軸に多角的に活動中。書籍に「日本野菜ソムリエ協会の人たちが本当に食べている美人食」「毎日おいしいトマトレシピ」「旬野菜のちから−薬膳の知恵から−」等がある。
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