野菜ソムリエの思ひ出の味
祖父の記憶につながる「キヌサヤ」

2016年11月9日UP
 農家に生まれ育った私は、農作業で多忙な母に代わり、小学1年生の頃から台所を担当していた。時代は昭和30年代、先の東京オリンピックの3〜4年も前の話である。もちろん便利な調理家電はなく、ご飯は薪をくべてかまどで炊き、ガスコンロは一口、魚は七輪で焼くという、今にしてみるとある意味贅沢でもあるが、毎食のことを思えば本当に不便な台所だった。それでも、3歳年下の弟の面倒を見ながらの台所仕事は、ままごと遊びの延長のように感じて好きだったように思う。
 最初の頃は、おかずを1品作るところからはじめた。母は、このくらい炒めたら塩をこのくらい、こしょうをこのくらいというように、身振り手振りを交えて丁寧に教えてくれた。そのうちみそ汁やお吸い物も作れるようになり、薪に火をつけてかまどでご飯を炊けるようにもなっていった。

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 そんなある日のことだ。私は、畑で採れたキヌサヤで「キヌサヤの油炒め卵とじ」を作って食卓に出した。文字通り、キヌサヤをさっと炒めてから卵でとじた料理である。それを見た祖父は「毎日毎日、同じものばかり食べられるか」とつぶやいたのだった。
 手伝いを始めてまだ日が浅く、料理のレパートリーが少ない上に、台所仕事に不慣れだったので、焦がしたり、生煮えだったりもあったかもしれない。幼いながらにも一生懸命作ってはいたのだが、同じ料理が何日も続き、祖父は思わず正直な気持ちを声に出してしまったのだろう。当の本人の私は、不思議と傷つくとか悲しい気持ちになるとかはなかった。祖父のことが大好きだったせいもあるだろう。祖父のつぶやきに対して、父は「サエコが頑張って作っているのだから、文句言わずに食べて。」とやさしくなだめてくれていた。本当は両親も祖父と同じような気持ちだったのではと思うが、多忙な両親にとっては「猫の手よりはるかにマシ」な貴重な台所要員であり、幼く痩せっぽちな娘が健気に頑張っていることを気遣ってくれたのだろう。

 その後、高校を卒業するまでは毎日、OLになって結婚するまでは休日のみ、実家の台所に立ち続けた。農繁期や、祭り、祝い事など、親戚や近所の人が集まって料理をする時は、母の代わりに手伝いながら見たり聞いたりして郷土料理なども覚えていった。日々の台所だけでなく様々なことも手伝う私を両親は一人前に扱ってくれて、さらに料理が好きになった。中学生になる頃には、魚をおろしたり、丸鶏をさばいたりするまでに腕をあげ、祖父の友達が来てお酒を飲む時はチャチャッと酒の肴を2〜3品用意し、祖父を喜ばせるようにまでなった。

 幼い頃は、台所仕事とは逆に、田んぼや畑の手伝いは好きではなかった。だが、大人になって小さな土地で自家菜園を始め、普通の「種を蒔く」「苗を植える」「育てる」「収穫する」「食べる」だけではない違う切り口で野菜のことを学んでみたいと思うようになった。それが野菜ソムリエを目指すきっかけだった。そして、野菜ソムリエ検定2次試験の面接で「好きな野菜果物は?」と聞かれて即答したのも「キヌサヤ」だった。資格取得後は、野菜を食べる量や種類、食卓に上る野菜料理の品数が格段に増えた。家族の健康を考えると、野菜ソムリエの勉強をして本当に良かったと思っている。
 祖父も父も他界してしまったが、野菜売り場で「キヌサヤ」を見つけるたび、今でも条件反射のように当時の記憶が鮮明によみがえる。陽が射す土間の食卓に並ぶ、シャキシャキしたキヌサヤの歯触りと彩りと、あの日の祖父の姿だ。遠い昔の温かい記憶である。

酒井佐恵子さんのプロフィール
福岡県在住。アクティブ野菜ソムリエ。宅地建物取引主任者。福岡支社の講座アテンドやレシピ提案などの活動(現在休止中)や、子供が卒園した『あかし幼稚園』でイベント時の夕食作りを担当。大きな魚も丸鶏もさばく、子供の頃からの料理好き。3人の息子はそれぞれ 飲食業、木工家、ワイン販売会社と食に関する仕事に就いている。92歳の義母、夫、次男夫婦と3歳の孫の6人家族。
ブログ「簡素な暮らし」では、日々のご飯、庭に野鳥を呼ぶ暮らしなどを綴っている。
http://kansonakurashi.blog.fc2.com

取材 / 文:野菜ソムリエ / ベジフルビューティーアドバイザー タナカトウコ