野菜ソムリエの思ひ出の味
実家の畑で父がつくる赤軸ほうれん草

 実家は泉州タマネギや水ナスが有名な南大阪に属する農家で、父の代からは兼業で農家を続けている。かつては出荷用として、ほうれん草・水菜・青梗菜などの葉菜類、キャベツ、白菜、大根、ネギ、米などを主につくっていた。両親が高齢となった今は、徐々に栽培数を減らしつつあり、そろそろ出荷はやめようかとも考えているようだ。

 さて、私にとっての思い出の味と言えば、子どもの頃、日々の食卓によく登場していた「赤軸ほうれん草のおひたし」である。実家の畑で赤軸ほうれん草が旬を迎える秋から春先には、そればかりが出されていた記憶がある。収穫したてのものを母が茹で、醤油をかけて鰹節をのせただけのものだ。一人分ずつ小鉢に盛られて配膳されたが、小鉢にしては量が多くほうれん草臭かった上に少々茹で過ぎの感もあり、子どもの私にとってはかなり苦手な一品だった。すっかりほうれん草嫌いとなった私は、その延長で和の葉物野菜全般も苦手になっていた。
 そんなある日、外食先で「ほうれん草のおひたし」を食べる機会があった。その時、「おひたし」とはだしに浸した料理で、だしの旨みが効いたおいしいものだと知った。これまで食べていたものは「おひたしもどき」だったのだ。子どもながらに大きなショックを受けた。そのことを母に訴えたのだが、その後も食卓に出てくるのは「おひたしもどき」のままだった。

 独身時代は台所仕事をすることはあまりなく、結婚後はすぐに香港に住んだため、本格的に台所に立つようになったのは香港の地だった。現地にもほうれん草はあったが固くてうま味がなかった。日本から空輸されたものはしおれていたが日本円にすると1パック600円ぐらいの高級品だった。その時になって漸く、実家には常に新鮮な野菜があったこと、そしてそれは当たり前ではなく非常に恵まれた状況だったことに気がついた。
 帰国後、この海外での食体験をきっかけに野菜ソムリエとなった。資格を取得して最も変わったことは、実家が農家であることを誇らしいと思うようになったことである。両親が従事する農業はいかに貴重な働きであるかにも気がつくことが出来た。それとともに天候に左右される毎日の農作業は両親にとってどんなに大変だったかとわかるようにもなった。また、ほうれん草について学びを深めるにつれ、「赤軸ほうれん草」の魅力をあらためて知ることにもなった。本来の赤軸ほうれん草は、甘みがあってやわらかく、ほうれん草ならではの風味があるおいしい品種なのだ。苦手意識が強かった当時の味覚ではおいしいとは思えなかったのだが、大人になって両親の苦労とありがたみに気がついたこともあり、今ではとてもおいしいと感じられるようになった。
 おいしさとは味覚だけで感じるものではなく、その食べ物にまつわる記憶、誰がつくったか、誰と食べるかなど、純粋な味覚以外の部分でも感じるものだという今の活動の根底にあるのは、あの、父が育て、母が調理した「赤軸ほうれん草のおひたし(もどき)」なのである。
 私が中学生くらいまでは両親ともに農作業が忙しかった。きちんとしたおひたしをつくる余裕がなかったのか、別の理由があったのかはわからない。当時の私は「おひたしもどき」ばかり出てくることに対して母によく文句を言っていた。そしてその場には父もいた。今にして思えば「文句を言うくらいなら自分が食事の手伝いをすればよかった。本当にごめんなさい」と、深く反省、いや後悔をしている。野菜ソムリエになってからは、野菜について聞くためだけに両親へと電話をする機会が増えた。その度に嬉しそうな声でいろいろと教えてくれる両親には、心から感謝している。

 現在は、既存店のアイドルタイムなどを利用した飲食サービス「野菜ソムリエの定休日食堂」や料理教室開催の他、間接的に青果物の魅力を伝える活動として、コラムやグルメ漫画などの監修や原作など誌面の企画や制作を行なっている。これからは現在の活動をより主旨を明確にして、他食材や異業種との取り組みを青果物が底上げするような企画を直接的にも間接的にも提案していこうと思っている。

田上有香さんのプロフィール
東京都在住。野菜ソムリエ上級プロ。大阪の兼業農家に生まれ育ち、広告代理店を経て、海外在住経験から日本の青果物の魅力に気づいて野菜ソムリエに。青果物を中心に幸せな食のシーンを作る、株式会社ファームアップ・代表取締役。
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written by

タナカトウコ

/取材・文

野菜ソムリエプロ、ベジフルビューティーアドバイザー。薬膳や漢方の資格も複数保有し、「食」を軸に多角的に活動中。書籍に「日本野菜ソムリエ協会の人たちが本当に食べている美人食」「毎日おいしいトマトレシピ」「旬野菜のちから−薬膳の知恵から−」等がある。
ホームページ http://urahara-geidai.net/prof/tanaka/
インスタグラム toko_tanaka